1912

機関車と客車がひとつになった工藤式蒸気動車 ホジ6005形

鉄道院 ホジ6005形 ほか

記事番号K40

 汽車会社創生時、設計課長に迎えられた工藤兵次郎は、国産蒸気機関車の設計に携わるかたわら、輸送力の少ない線区に適した小形機関車と客車がひとつになった蒸気動車を1909年に開発し、翌年特許取得した。(年表コンテンツ 1903年「汽車製造合資会社の国産機関車 230形」の記事欄参照) 
 この工藤式蒸気動車の最初の導入例は奈良県の初瀬軌道である。
 鉄道院には1912年から1914年にかけて18両(ホジ6005〜6016、6060〜6065)が導入された。1920年頃までに少なからぬ導入例がある。
 1913年に汽車製造で製作されたホジ6014は、ジハ6006の改番を経た後、国鉄キハ6401となった。このキハ6401は2009年まで明治村に保存されていたが、現在はJR東海 リニア・鉄道館に移され、現存する唯一の蒸気動車として引きつづき保存されている。

生産技術

 小型のB型蒸気機関車のボイラと台枠の間にボルスタを設け、ここに車体側台枠と連結される側梁を載せることで曲線通過時に車体に対して機関車部分がボギー式台車のように首を振る構造であった。
 工藤式蒸気動車は、ガンツ式ほど性能は高くなく、ボイラー圧力も当時の一般的な蒸気機関車並の11気圧程度であったが、信頼性と扱いやすさの面で当時の日本の技術水準に適していた。

時代背景

 蒸気動車は、石炭をくべる機関助手を要した。また、機関室と逆方向に運転する場合、運転士は機関助手とワイヤと伝声管で連絡を取って走行した。このように、取り扱いに手間がかかることから、その後、より運用が簡便で高効率な内燃動車が出現したことに伴って、大正時代末期以後に蒸気動車は廃れ、大半は機関部を撤去して客車化されていった。

記事

 「気動車」の語源はこの「蒸気動車」の省略形である。そこから転じて、熱機関動力の自走客車全般の呼称となった。ただし関西鉄道のガンツ式蒸気動車の場合は汽動車と略していたとされる。(Wikipedia)

  • 鉄道院ホジ6010
    「日本の蒸気動車(上)」(ネコ・パブリッシング)

  • 汽車製造株式会社広告。鉄道院ホジ6010。 鉄道時報1913年1月25日より
    「日本の蒸気動車(上)」(ネコ・パブリッシング)

  • 工藤式蒸気動車説明図
    「日本の蒸気動車(上)」(ネコ・パブリッシング)

  • 工藤式蒸気動車説明図
    「日本の蒸気動車(上)」(ネコ・パブリッシング)

  • 工藤式蒸気動車の機関車部(苗穂工場にて撮影 今井 理氏提供)
    「日本の蒸気動車(上)」(ネコ・パブリッシング)

  • 明治村に保存されていたときのキハ6401 P:湯口 徹
    「日本の蒸気動車(上)」(ネコ・パブリッシング)