北海道の官営幌内鉄道は、客車8両を米国ハーラン・アンド・ホリングスワース社から輸入した。これらは、全て2軸ボギー車であった。
また、この客車と同時期にアメリカのH.K.ポーター社から蒸気機関車2両が輸入されたが、この蒸気機関車(後の鉄道院7100形)1、2は、それぞれ「義経」、「弁慶」と命名されたものである。
なお、北海道開拓使(1869年設置)が、資源調査に雇った技師がアメリカ人であったことから、石炭の積み出し用の鉄道敷設がアメリカ式になった経緯があるが、当時開拓使長官の黒田清隆(後、明治21年4月から内閣総理大臣)の方針で軌間は、本州の鉄道と同じ3ft6in(1067mm)として将来の他の鉄道との接続を考慮されたという。
生産技術
台車は、木製側枠、木製揺れ枕のものである。
その後、幌内鉄道は、台車を輸入して車体を手宮工場(小樽市内)で作って、明治22年(1889年)末に私設鉄道の北海道炭鉱鉄道へと引き継がれたときには、14両のボギー車を有していた。(出所:「日本の客車」鉄道図書刊行会 昭和37年発行)
記事
本州の鉄道はイギリス式、北海道はアメリカ式でそれぞれが発足しているのは興味深いことである。
当時の本州の車両は、連結器が螺旋および連環連結器の併用でその両側には緩衝器(バッファー)を備えていたのに対し、幌内鉄道の車両は、機関車がテンダ(炭水車)式、客車が2軸ボギー車、連結器は、中央緩衝式(ピン リンク式、またはミラー式)であり、機関車と客車は、空気ブレーキを備えていた(「日本国有鉄道百年史」より)。本州では、当時は未だ真空ブレーキの時代であり、この空気ブレーキは、鉄道国有化(明治39年)後に、真空ブレーキに取り換えられている。