1953

「車体軽量化の研究」 始まる

記事番号P240

 国鉄では、1953年(昭和28年)以来、重要技術課題の一つとして「車両の軽量化」を採りあげ、2年の検討を経て1955年(昭和30年)10月、試作軽量3等客車8両を完成させた。
 この車の自重は、23tで、従来の33tに比べて、3割の軽量化がなされた。この試作車についての種々の試験を行った結果、その後の新製する全ての客車を張殻構造の軽量構造のものにする方針を確立した。

生産技術

 ボギー車は2つの離れた台車で車体を支えており、概略は2点で支持する梁に分布する荷重が掛かっている状態であるほか、連結等に伴う前後方向の力などの衝撃力も加わる。すでに鋼製車でも台枠だけでなく側板等でこれらの力を負担する設計であった。
 これをさらに進めて台枠に側と屋根を組み合わせた四角の管のような構造全体で負担する方式が、張殻構造(モノコック構造)である。
 床に波形鋼板(キーストンプレート)を張って車端衝撃を担わせ、従来は台枠の長手方向の中央に入れられていた中梁が省略されている。
 また屋根、側構、屋根を関連させ、横梁、側柱、タルキがなるべく同一断面に配置され、これに鋼板を張ることで、荷重に対して全体が一つの梁のような構造となっている。
 この張殻構造が日本の軽量客車と呼ばれるナハ10形以降採用されるようになった。

時代背景

 スイス連邦鉄道の軽量客車は、1932年に積極的に客車を軽量化する方針を確立し、その設計を車両会社SWS(通称シュリーレン社)に依頼したことにはじまる。(車両技術23 1955年12月より)
 5年後の1937年(昭和12年)、両者の緊密な連携と構体荷重試験などによる基本的な検討が終了し、試作8両による軽量急行列車1編成が誕生した。
 その後、この基本構造に順次改良が加えられ、併せて台車構造の軽量化も行い、「スイス国鉄の軽量客車(Leichtstahlwagen)」として世界に名を馳せた。
 第2次世界大戦後の1947年(昭和22年)、スイスで開催された国際鉄道会議では、車両の軽量化がテーマに取り上げられ、以後ますますこの種の軽量化が各国間で進められるようになった。
 日本で10系客車の試作が開始された1955年の段階で、スイスでは既に1,000両を超える軽量客車が就役していたという。

記事

 日本の国鉄から1953年11月から約1年間、軽量車両調査のためスイス、フランス、ドイツ、イタリアの各国鉄を視察した星 晃氏は、車両鋼体の「張殻構造」を"Self-supporting tubular girder type" と称し、当時のスイスの技術を次のように紹介している。
 「同一平面内にある大枠横梁、側柱、鉄垂木が連続して、台枠裏張板、天井板が形成する隅の丸い四角形断面の殻に、タガをかけている。これらはまた長手部材によって互いに結ばれ、かつ車端は強固な壁で閉じられており、曲げと圧縮に対して十分な強度を持っている。
 材料としては、全面的に普通鋼St37が用いられ、溶接が容易(新製ならびに修繕に際して)であることと妥当な価格という理由でフランスのような高抗張力鋼を用いることは絶対やらないというのがスイス国鉄ならびにスイス各車両メーカーの客車軽量化に対する根本思想となっている。側板は厚さ2.5mmで耐蝕性を増すために特に銅の含有量0.3%のものを使う。・・・・」(車両技術23号 1955年12月より抜粋)