60系客車とは、国鉄が1949年(昭和24年)から木造客車を改造して鋼製客車とした客車の形式群である。このグループを総称する形で鋼体化改造車とも呼ばれる。
木造客車を構成する部材のうち、もともと鋼鉄製で流用の効く部材の台枠や台車、連結器などを再利用し、鋼製の車体のみを新製するものである。
膨大な改造両数となるこの計画の実現のため、国鉄では進駐軍で国鉄の運営を管轄していたCTS(Civil Transportation Section=民間輸送局)の担当者をラッシュアワーの総武本線両国駅に案内し、窓や羽目板の破損した老朽木造車に、すし詰めとなった乗客が窓から乗降している危険な現状を実見させた。更に、過去の事故における木造車と鋼製車の被災状況記録なども比較提示し、木造車の老朽化対策が喫緊の課題であることを懸命にアピールしたという。この結果、国鉄は1949年から鋼体化改造に着手できることになったもの。(Wikipedia)
生産技術
普通列車用木造車の置き換えが主目的であることから、そのほとんどは三等車もしくは荷物車・合造車として製造された。
台枠:最大の流用部材である台枠には、1919年から1927年にかけて製造された2,800mm幅の広幅車体を備える「鉄道省大形客車」のUF12・15などが、主に再利用されている。
最低限の接客設備:専ら普通列車での運用が前提であったことから、接客設備等は木造車並みの部分も多く、安全対策のために車体構体を鋼製に改造しただけで、同時期の完全新製車(スハ43など)と比べると、乗り心地や居住性の面では劣った。
座席は木造車並みの木製背ずりである。鋼体化車では輸送力を重視して狭いピッチ (1,335mm) としたため、20m級制式三等客車が通常定員88人のところ定員96人とした。
1949年から1956年の間に、以下のごとく全国の国鉄工場および主要な民間車両メーカーのほとんどを総動員して製作された。
・国鉄工場: 旭川・苗穂・五稜郭・土崎・盛岡・新津・大宮・大井・長野・名古屋・松任・高砂・後藤・多度津・幡生・小倉
・民間車両メーカ: 愛知富士産業・飯野産業・宇都宮車両・川崎車両・汽車製造東京支店・近畿車輛・帝國車輛工業・東急車輛製造・新潟鐵工所・日本車輌製造東京支店・日本車輌製造本店・日立製作所・富士産業・富士重工業・富士車輌・輸送機工業
時代背景
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)2月25日、八高線東飯能 - 高麗川間で客車列車が脱線転覆し、184人が死亡する事故が発生した(詳しくは八高線列車脱線転覆事故を参照)。事故列車は木造客車で編成されており、構造脆弱な木造車体が転覆によって大破したことが、死者数を増大させたと考えられた。
だが当時は戦後の混乱期でインフレーションが進行しており、新製車両はコスト的に困難であり、また当時の鉄道運営を管轄していた進駐軍は、車両新造許可には消極的で、度重なる車両増備の要望にも容易に応じなかった。
対策として、木造車の改造の名目で、安価に鋼製客車を製造する「鋼体化」改造を行った。