太平洋戦争終戦後、日本の鉄道は連合軍総司令部(GHQ)指揮下の第3鉄道輸送司令部(3rd Military Railway Servise/MRS)の管理下に置かれることとなった。輸送司令部は日本の国有鉄道に対し、優良客車の接収と改造、それらによる専用列車の設定と運転を要求した。これにより、連合軍に接収された客車群は約900両に及び、これは、当時の国の客車の1割に達するほどの量であった。
これらの客車は、1952年(昭和27年)4月28日の対日講和条約の発効により占領が終わるまでにほとんどが返還されたが、一部の車両(郵便車)は、1970年(昭和45年)まで使用された。
生産技術
1946年(昭和21年)1月28日、輸送司令部は専用客車の車体塗色を、日本人用車両より明るい独自の茶色に塗り替えるよう命令した。同年6月25日には、新たな体系による軍番号が指令され、一等寝台車から暖房車まで28種に分類されるようになった。
専用客車に全て一等車と同じ白帯をつけることを要求し、白帯の中に「U.S.ARMY」のちに「ALLIED FORCES」の標記がなされた。
1946年客車の一部、展望車2両、食堂車1両、病院車2両に冷房装置を製作、取り付けた。これは、戦前に試用された川崎重工業製の直接駆動式冷房装置KM2・3形。さらに翌年以降将官用の寝台車など、合計で30両の冷房付き軍用客車が運転されるに至っている。
記事
・一等寝台車:1001 - CINCINNATI - マイネ375 、1006 - PARADISE - マイネ377 ほか
・開放式二等寝台車:1501 - CHARLESTON - マロネフ3728 ほか
・連合国政府や軍の高官等の要人輸送用の車両:1702 - CRESWICK - マイロネ386(マロネ386)ほか
・一等展望車:2101 - ASHEVILLE → BALTIMORE - スイテ10(10号御料車) ほか
・食堂車:2201 - ALBANY - スシ3757(スハシ4812) ほか
等々