オハ22000形客車は、日本国有鉄道の前身である鉄道院(後に鉄道省)が1919年から1927年にかけて製造した17m級木造2軸ボギー車である。
1918年の第一次世界大戦の終結後、鉄道院は将来的な貨物需要減少と旅客需要増大の見通しの下、旅客輸送力増強のために制式客車の大形化を企画した。
そこでまず、1919年12月1日に鉄道院傘下の大井工場で二等座席車であるホロ22000形と三等座席車であるホハ25000形の2両の試作車を製造、これらを試運転後に実際の運用に投入して評価試験を行うこととした。また、これに合わせて翌1920年に「大形客車車両限界」を制定、実際の車両運用に必要となる法規上の条件整備が実施された。
生産技術
車体は、車体幅2.8m、車体長17mとし、天井も最大高が拡大されて明かり取り窓のある二重屋根を採用しつつ余裕のある天井高さが確保され、前世代の標準客車であったホハ12000形などと比較して格段に快適性が向上している。
通風器は、ガーランド式を採用し、従来のトルペード(水雷)式と比較して換気性能の向上を図っている。
全形式共に製造時期に合わせて大正6年基本型、TR11あるいはTR12と称する球山形鋼を側ばりに使用する釣り合い梁式の2軸台車を装着する。
各車軸間の軸距は2,438mmとするなど基本的な設計は同一である。
車軸は、改軌論争の影響により長軸とされている。これは、標準軌に改軌されても容易に対応できるよう準備したもので、以降の長軸の採用は長く続いた歴史がある。
・短軸(軌間1067mm対応用):1574mm(ジャーナル中心間距離)
・長軸(軌間1435mm対応用):1930mm(ジャーナル中心間距離)
時代背景
1910年(明治43年)、輸送量増大施策として後藤新平鉄道院総裁による標準軌への改軌の提案が、鉄道会議で可決した。
1911年8月、 改軌反対の原敬鉄道院総裁就任におよび、全国鉄道路線を充実する政策を優先、改軌計画は中止された。
その後も、後藤新平(再度鉄道院総裁)と島安二郎(鉄道院工作局長)らは、改軌に向けていろいろと計画を進めた。
1919年2月、原敬首相の下の末次鉄道大臣は、貴族院特別委員会において改軌不要の答弁を下し、ここに日本国鉄の標準軌化計画は、終焉となった。
しかしながら、以降も国鉄車両の車軸は原則、長軸で製作された。客車では、10系軽量客車(1955年)になって短軸採用。
記事
本系列は、ほとんどが木造車体のまま太平洋戦争終了後まで使用された。その後、17m級であったものを20m級とした上で、その上に新しい鋼製車体を組み立てて20m級鋼製客車とする、いわゆる鋼体化改造工事(60系客車)の主な種車となり、1955年ごろには国鉄の営業用車両から木製客車が一掃された。