当時私鉄であった山陽鉄道(後の、国鉄・JRの山陽本線)が、明治32年(1899年)5月にわが国で初めてとなる食堂車を運用した。
これは、明治32年5月25日、急行307・312列車(京都〜防府(当時の三田尻))に食堂車を連結して営業したものである。
山陽鉄道が船便(瀬戸内海航路)との競合から先進的なサービスを提供する目的で列車食堂を開始したものである。
さらに翌年明治33年(1900年)4月には1等寝台食堂車イネシ9070〜9072形を運転したが、これは日本で初となる寝台食堂車である。
なお、官営鉄道としては、明治34年(1901年)になって、新橋〜神戸間の急行列車に2等食堂車シ1〜4および、食堂車シ5が新橋工場で製作され営業された。
生産技術
食堂車ホイシ9180〜9182形、イネシ9070のいずれも山陽鉄道の兵庫工場で製作された。
ホイシ9180形:
3軸ボギーの1等食堂合造客車。車長17m、20.3トン、真空ブレーキ式、電灯付。
1等座席(定員26名)と食堂の合造車で、食堂は、当初5人が対面で合計10人が1テーブルを囲う形で食事するレイアウトであった。後に、4人テーブル2つと2人テーブル2つ、1人用のテーブル1つで合計13名が食事できるようになった。
西洋料理が仕立てられる神戸の自由ホテルが委託されて調理されたが、後に自前のホテル山陽ホテルを下関に開業し直営で調理するように切り替えている。
イネシ9070形:
3軸ボギーの寝台食堂合造客車。車長17m、21.6トン、真空ブレーキ式、電灯付。
1等寝台が2段で16名、食堂が8名対応の合造車である。
記事
「イネシ」とは、イ=イロハのイ=一等、ネ=寝、シ=食ということで、一等寝台車に食堂車が併設されたものです。
当初の食堂車は、1等車のみであり乗客も限られていた。