1850

1850年以前:1804年 トレビシックの蒸気機関車 世界初の実用運搬走行に成功

トレビシック2号機 反圧ブレーキ

記事番号J10

 ホンフレイは、トレビシックの蒸気機関車が10トンの鉄を牽引してペナダレンからアベルカノンまでの約16kmを運べるか、別の製鉄所の持ち主リチャード・クローシェイと500ギニーの賭けをした。
 この賭けは大衆の注目を集め、1804年2月21日、ペナダレン号は10トンの鉄と5両の客車、それに乗った70人の乗客をアベルカノンまで4時間5分で輸送することに成功した。 なお、この機関車のブレーキは、摩擦系のブレーキが設置されておらず、逆転操作で減速する「蒸気ブレーキ」で正しい知識と経験が無いと、シリンダーを破壊する可能性が高かったと言われている。また、客車はブレーキマン(運転手とは別にブレーキをかけるための乗務員)と呼ばれる人が乗っていて運転手と連携して連結車両にあるケーブルに繋がるハンドルを操作してブレーキを掛けていた。((Wikipedia)
 これが、世界で始めて蒸気機関車が乗客を運搬することに成功したものとされている。
 平均時速は約3.9kmである。

生産技術

 1802年、リチャード・トレビシックはマーサー・ティドヴィルのペナダレン製鉄所でハンマーを駆動する高圧蒸気機関を製作した。
 同製鉄所の所有者サミュエル・ホンフレイの監督下、同製鉄所の作業員リース・ジョーンズを助手として、その蒸気機関を台車に設置して蒸気機関車とした。
 1803年、トレビシックはこの蒸気機関車の特許をサミュエル・ホンフレイに売却した。

時代背景

 英国ウェールズ南部の町マーサー・ティドヴィルでは製鉄業が栄え、鉄鉱石や石炭の運搬に鉄道馬車を使用していた。また、製鉄所で製造された鉄製品を運河を使ってカーディフまで運搬していた。しかし、運河だけでは製品の輸送が追いつかなかったため、1802年にいくつかの製鉄所が共同して、マーサー・ティドヴィルから途中のアベルカノン(Abercynon)まで運河に沿って結ぶ馬車鉄道を作った。

記事

<ロンドン蒸気車>
 1803年、トレビシックとビビアンがロンドンで公開した。パフィング・デヴィル号では長時間十分な蒸気圧を保つことができなかったため、実用性が乏しかった。そこで1803年、ロンドン蒸気車と名付けた新たな蒸気自動車を製作し、ロンドンのホルボーンからパディントンまでを往復してみせ、報道関係などの注目を集めた。しかし馬車に比べて乗り心地が悪く、燃料費が高くついたため、実用化はされなかった。

<リチャード・トレビシック氏の子孫>
 トレビシックの孫である2人の兄弟は、明治の日本にお雇い外国人として招かれ、鉄道技術の指導に当たった。その一人であるリチャード・フランシス・トレビシック(兄)は、初の日本国産蒸気機関車となった国鉄860形蒸気機関車の製作を指導している。もう一人はフランシス・ヘンリー・トレビシック(弟)である。