1913年に、9580形の増備のため、火室構造の改良を行い、更なる性能向上を図った9600形の製造を開始した。
当時、川崎造船所で先行して設計していた4110形と同様に、機関車の重心位置が上がることを恐れずに、火格子面積を大きくとるため、火室の火床を動輪の上に置く設計を採用し、大きな成功を収めた。
その結果、9600形は、大正時代を代表する貨物用機関車となり、川崎造船所、汽車会社、小倉工場の3工場で合わせて770両を作るに至った。
最少の18両は、山北・沼津間で使用されていたマレー式テンダ機関車の置換えを想定した短区間での補助機関車として投入するため、炭水車は水も石炭も少量しか搭載できない2軸式のものとしたが、その後は、一般の貨物列車を想定して3軸式の炭水車を採用していた。
また、国鉄蒸気機関車の最末期まで使用された機関車が、9600形の3両であった。(1959年D61形機関車 エポックの内容欄参照)
生産技術
<形式:9600>
・軸配置・機関車形態:1D形テンダ機関車
・製造会社:川崎造船所(686両)、汽車会社(69両)、小倉工場(15両)
・製造年度・両数:1913〜1926年(770両)
・機関車質量:60.4t(軸重13.4t)[1913製の場合]
・動輪直径1250mm
・記事:過熱蒸気式、広火室
上記の鉄道院へ直接納入した機関車のほかに、旧樺太鉄道に1928〜41年にかけて14両[川崎造船所(4両)、日立製作所(1両)、汽車会社(9両)]が納入されている。
これらの機関車は、火室がさらに多くなり、機関車質量が58.3tとすこし軽いなるとともに、ボギー台車を用いた4軸式の炭水車を備えていた。
また、このほかにも北海道の炭鉱事業者が9600形及びその同系機関車を自社購入し、台湾にも輸出されていた。
また、日中戦争当時、陸軍の要請により、1938〜39年、標準軌に改軌の上、251両もの本機が中国に送られている。
時代背景
第1次世界大戦(1914〜1918年)勃発は、鉄道車両工業にも影響を与えた。
鉄道院の国産機関車の標準化などで、日本人の手で機関車を設計できる体制が整いつつあったが、一方、機関車の主要部品である車輪、車軸、担ばね、圧力計、油ポンプ、注水器、過熱器などは、その多くを輸入に頼っていたのが現状であった。
日英同盟に従い、日本も1914年に対ドイツ宣戦を行ったが、このため、ドイツ製部品の輸入ができなくなってしまった。ドイツ製品は、その輸入価格が安かったために当時、広く使われており、これらの部品が手に入らないことで、機関車の製造に大きなダメージを与えることとなった。
記事
<鋼材・部品の内製化>
一方、第1次世界大戦の影響による機関車製造に必要な鋼材の価格高騰、部品の入手難は、更なる国産化の推進を進める結果にもなった。
川崎造船所は、1916年に鋼材の自給を目的に、葺合(ふきあい)工場(川崎製鉄所の前身)を建設した。
汽車会社は、1913〜1914年に、500t高速水圧プレス、動輪を駆動する連結棒の製作に使用する横中くぐり盤、自動ステーマシン、大形の立て旋盤、直径1600mmの動輪のタイヤを切削できる外径研削盤、ボイラ板ラジアルエッジフライス盤、機関車台枠用フライス兼立て削り盤、シリンダ中くぐり盤などなどの225台の機械をイギリス、ドイツ、アメリカから購入している。
また、住友金属は、機関車及びその部品の製作に必要不可欠である、継ぎ目なし鋼管(1912年)、機関車用鋼管(1914年)、大形鍛造品(1916年)などの製造を開始し、1919年には鉄道用外輪工場、1920年に輪軸の仕上げ組立を行う車輪工場を完成させている。