1911

鉄道院初となる国産旅客列車用機関車 6700形

6700形

記事番号J410

 1906年の鉄道統合によって、鉄道網の一元化はなされたが、当時の主要旅客用列車用の機関車は、官営鉄道が英国製6200形、旧日本鉄道が英国製5500形、山陽鉄道が米国製5900形、九州鉄道が米国製5700形、関西鉄道が米国製6500形と生産国も違えば、性能もばらばらな状態であった。
 また、当時、汽車会社が70両近くの製造経験をもち、川崎造船所が造船業の不振から設備と人とを振り向けて機関車製造を開始する機運にあった。
 鉄道院総裁となった後藤新平が機関車の国産化を奨励したことを受け、汽車会社及び川崎造船所に従来の海外機関車の模倣から1歩すすんだ国産2B形テンダ機関車6700形が製作が1909年から開始され、1911年及び12年に納入された。
 6700形は、明治以来の標準的な飽和式蒸気で走行する機関車であったが、後に27両は、1911・1912年に鷹取工場、浜松工場、大宮工場、小倉工場にて、過熱式に改造し、B50となった。

生産技術

 鉄道作業局神戸工場時代に汽車監督R.F.トレビシックから機関車設計の手ほどきを受けた、太田吉松によって設計され、従来の外国製の模倣や彼の師匠であるR.F.トレビシックの好んだスタイルとは異なり、その後の国鉄型蒸気機関車のアイデンティにもつながる機関車となった。   

<形式:6700>
・軸配置・機関車形態:2B形テンダ機関車
・製造会社:汽車会社(19両)、川崎造船所所(27両)
・製造年度・両数:1911年(16両)・1912年(30両)
・機関車質量:43.5t(軸重14.2t)
・動輪直径1600mm

 太田吉松は、川崎造船所所の機関車製造開始(1907年)に当たり、官を辞して川崎造船所所兵庫分工場機関車設計主任となった。

時代背景

 川崎築地造船所(1878年)および川崎兵庫造船所(1881年)を設立した川崎正蔵は、1886年に官営兵庫造船所の払い下げを受け、工場を旧官営兵庫造船所に集約し、川崎造船所と改称した。日清戦争によって事業は拡大したことを受け、1896年に株式会社川崎造船所所となった。川崎正蔵後継者として松方正義の3男松方幸次郎が初代社長となった。株式会社設立以降、艦艇、日本初の国産潜水艦、商船などの建造を順調に受注していたが、日露戦争終結後の不況に伴い、1906年に鉄道車両製造の進出を決定し、1907年に神戸市東尻池村(現在の神戸市兵庫区和田山通)に新工場を完成した。

記事

 1906年の鉄道国有法の発布により、私鉄を国有化することで全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化がなされ、1908年に鉄道局と帝国鉄道庁とを統合した内閣鉄道院が新たに設けられた。
 旧鉄道作業局及び各私鉄から引き継がれた機関車は、1909年に制定された鉄道院の形式番号体系に従って、新たな形式番号が振りかえられた。
 この時に付与された形式番号は、1928年に新たな体系が制定された後も蒸気機関車については、変更することなく廃車の時まで用いられた。

  • 6700形
    出所:「100年の国鉄車両」(株式会社 交友社)