汽車製造会社では、碓井峠で使用したアプト式タンク機関車の増備車として、1906年にアプト式機関車として国産初となる3980形を製造した。
3980形は、1C1形アプト式タンク機関車3950形を基本に製作したが、勾配線区での使用を考慮して、3950形のように水平に設置せず、1/15の傾斜をもって煙室側を低く設置したほか、当初から油タンクをボイラーの上に配置し、水タンクにリベットの頭が見えない構造とし、煙突や炭庫などの形態に汽車製造会社のデザインを織り込んでいた。
また、ブレーキは、真空、蒸気、手、シリンダ反圧、ラックの5種類を装備して完璧を期していた。
なお、ラック歯車の部分のみは、Beyer Peacock社から購入した。
碓井峠は、1912年5月に電化され、3980形は、アプト式蒸気機関車の最後の形式となった。
こののち、3980形はアプト式のラック用ピニオンギヤを外すなどの改造を行い、福島・米沢間の板谷峠の補助機関車に使用したのち、1917年に全車が廃車となった。
生産技術
<形式:3980>
・軸配置・機関車形態:1C1形アプト式タンク機関車
・製造会社:汽車会社
・製造年度・両数:1906年(2両)・1908年(2両)・1909年(2両)
・機関車質量:55.9t(軸重13.4t)
・動輪直径:914mm
通常の機関車と異なり、複雑な機構をもつアプト式機関車の製造は、同社の技術力向上に大きく寄与したと考えられる。
時代背景
当時、碓井峠は、東京と日本海側、東京と軽井沢とを直結する重要な路線として、年々、輸送力の増加が求められていた。
当時、軽井沢は、1894年に軽井沢で最初の洋式ホテル「亀屋ホテル」(後の万平ホテル)、1899年に「軽井沢ホテル」、1906年には「三笠ホテル」が開業するなど外国人避暑地として整備されつつあり、宣教師・知識人・文化人の間で人気を博していた。