5000形は、旅客列車の速度向上には向いておらず、ほかには貨物用C形テンダ機関車しか輸入しなかったため、神戸工場で、日本初となる2B形テンダ機関車に改造した機関車である。
生産技術
車輪、車軸、その他の材料についても、イギリスから供給を受け、設計及び工事の指導は、汽車監察方のウォルト・マカルセー・.スミスによったと考えられている。
しかしながら、鉄道開通して間もない状態で、英国人技師の指導の基とは言えども、軸配置を変えるという大きな改造工事を国内で初めておこなった意義は大きい。
なお、シリンダ、ボイラ、運転室、炭水車(テンダ)などは、7010形のままであった。
<形式:5100>
・軸配置・機関車形態:2Bテンダ機関車
・改造工場:神戸工場(鉄道作業局)
・改造年度・両数:1876年(2両)
・機関車質量:26.4t(軸重8.6t)
・動輪直径:1397mm
・記事:7010形C形テンダ機関車を改造
時代背景
江戸時代から、京都と大阪間の物流は、「淀川三十石船」が重要な交通機関として存在していた。
交通科学館のHPによると江戸時代末期頃には1日平均約1500人と800トンもの貨物を運んでいたと言われている。
また、明治3年頃から淀川に外輪船の蒸気船が就航している(交通科学館には、この蒸気船模型が展示されている)。
このように、三十石船を中心とする淀川の舟運は、大阪と京都を結ぶ交通の動脈という状態であった。一方、大阪と神戸はともに海に面した都市であり、古くから海運が行われていた。
これら、水上輸送は、鉄道と比較すると所要時間が長くなるが、重量物の搬送には有利であった。
当初の英国人たちには、このような当時の日本の状況が伝わらずに鉄道計画が貨物輸送を重視した形で進められていた。これを、旅客輸送を先行する形に軌道修正された時期であった。
記事
京都〜神戸間は、当初、貨物輸送に力を入れて計画を行い、機関車をイギリスに発注していた。開業後の旅客輸送が伸びた結果の改造と考えられる。新製間もない機関車をこのように改造した例は、ほかには見られず、購入計画などについても、イギリス人が実権を握り、日本人は、日本の実情を説明することもできずに技術的後見人にしばられていたことを物語っている。