1872年10月14日に開業した、日本初の鉄道となる新橋〜横浜間で使用された1号機関車と呼ばれた機関車。現在は、国の重要文化財に指定されている。
品川〜横浜間は、路線距離も短いこと、線路建設工事にも扱いやすいことから、英国から招へいされた技術者たちによって、1B軸配置のタンク機が選定された。
英国から輸入した機関車であり、ブレーキ方式として機関車は蒸気ブレーキ、客車は、ブレーキマン(運転手とは別にブレーキをかけるための乗務員)による手ブレーキであった。
生産技術
<形式:150形>
・軸配置・機関車形態:1B形タンク機関車
・製造会社:Vulcan foundry(英国)
・製造年度・両数:1871年(1両)
・機関車質量:23.5t(軸重9.1t)
・動輪直径:1321mm
・記事:1号機関車、ウォークブレーキ装備
*同時期に東部線(新橋〜横浜間)で使用した同系統の1B形タンク機関車
全て英国からの輸入機関車。
110形 Yorkshire 1871年(1両、東部用)
120形 Robert Stephenson 1873年(4両、西部用)
130形、140形 Sharp Stewart 1875年(4両、西部用)
160形Sharp Stewart 1871(4両)・1874年(2両、東部用)
なお、Robert Stephenson社は、1829年にロケット号を作ったショージ・スチーブンソンが設立した会社である。
時代背景
プロイセン王国は、産業革命で先行するイギリスに対すべく、1860年代以降、ルール地方・ラインラントなどの西部地域に工業地帯が形成した。また、1870〜71年の普仏戦争(フランスとプロイセン王国との間で行われた戦争)によって、プロイセン王国を中心にドイツ諸国を統一した帝政ドイツが誕生するとともに、フランスとの講和条件として巨額な賠償金とともにアルザス=ロレーヌ地方手に入れて国土の一部とした。同地方は、鉄鉱石と石炭を産出するため、ドイツの重工業の発展を加速し、後にイギリスの工業力に対抗できることとなった。
しかし、明治初期の段階では、まだイギリスが鉄道技術の先頭を走っていた時代であった。
記事
<明治初期の技術移転>
殖産興業は欧米からの技術移転により近代工業を育成することに重点が置かれていた。技術移転の方法としては、外国人技術者を日本に招へいし、技術移転を促進する、いわゆるお雇い外国人という方式が取られたことはよく知られている。お雇い外国人は元々開国後に江戸幕府や各藩が直轄の軍事工場等の能力増強のために取った方法であり、維新後は中央政府のみならず地方政府や私企業にも雇用されるようになった。彼らの人件費は高く、一般の公務員の約20倍ほどの俸給を受けていた。その数は1875年をピークとして減少し、代わって技術の担い手は日本技術者になったのである
<技術移転と教育制度>
お雇い外国人の帰国後、技術の担い手となったのは日本人技術者であり、それは初期留学生と大学卒業者、高等工業学校卒業者の3つに分けられる。初期留学生は、江戸時代末期は藩から、維新後は文部省などから欧米諸国に派遣され、帰国後は官庁や民間企業の上級技術者となり、お雇い外国人の帰国後の技術導入の役割を担った。工学教育に大きな役割を果したのは、1871年設立の工学寮に起源を持つ工部大学校である(現在の東京大学工学部の前身)。工部大学校の学生は、欧米で体系化されたばかりの工学の知識を習得し、卒業後は工部省等の官庁や財閥企業の技師となった。一方、能力はあっても大学に進学するほど経済的余裕のない学生は、中学卒業後に高等工業学校に進学するケースが多かった。東京職工学校、大阪工業学校は1903年の専門学校令による高等工業学校となり、民間企業の基幹技術者を多く輩出した。1910年代になると、大学卒と高等工業学校卒の雇用者数は逆転し、高等工業学校は技術者の量的供給という面で大きく貢献したのである。なお、明治の後半から大正期にかけて就学率が急速に高まり、実際に作業に従事する職工の質に影響を及ぼした。
(引用:平成12年度年次経済報告新しい世の中が始まる平成12年7月経済企画庁)