1870

海外から鉄道技術者の招へい、鉄道敷設工事の始まり

鉄道開業に備えて、鉄道技術者の招へい

記事番号J40

 日本で初となる鉄道の開業に備えて、イギリスから多くの技術者が招かれ、日本の鉄道の第一歩を歩み始めることとなった。
 新橋〜横浜間を東部路線、京都〜神戸間を西部路線と呼び、東部は1870年3月に新橋で起工式を行い、西部は1870年7月に大阪〜神戸間の測量を開始した。
 新橋〜横浜間が開通するころには、東部、西部を合わせて、複数のイギリスの車両製造会社から機関車10両、客車58両、貨車75両が輸入されたと言われている。
 なお、機関車に取り付けていた車番は、東部路線用が奇数番号、西部路線用が偶数番号というように割り当てられていた。

生産技術

 招へいされた外国人は、政府の在籍記録から数えるだけでも、建築、土木、機関車などの設計技術者、事務方だけでなく、運転士や整備士も含めて計250人以上で、そのほとんどがイギリスから来た技術者であった。
 明治3年に19名、明治4年に50名、明治5年に45名、明治6年に56名、明治7年に39名、明治8年に21名、明治9年に14名、明治10年に3名、明治11年に2名、明治12年に6名、明治15年に1名。機関車などの設計技術者の頂点は、汽車監察方や気罐方頭取と呼ばれ、代々、英国人がその職責を務めていた。

時代背景

 幕末、鎖国政策を捨て、欧米の知識を手にいれるため、使節団、留学生を外国に送り出したが、彼らの多くは、帰国後に、鉄道の必要性を訴えていた。また、明治政府は、富国強兵を推し進めて近代国家を整備することを掲げていた。そこで、日本人に西洋を範とした近代化を目に見える形とするため、大隈重信・伊藤博文らは鉄道を整備することにした。
 当初、東京と京都・大阪・神戸とを中山道沿いに結ぶ本線及び米原から分岐して日本海側の敦賀港に至る路線を計画していた。しかし、建設予算が下りなかったこと、軍隊の強化を優先する西郷隆盛らなどの反対があった。一方、民間資本を取り入れてでも鉄道整備を行うべきとの意見が置き、実際の鉄道を多くの人に見せる目的も含めて、1869年(明治2年)に官営で新橋〜横浜間29kmに鉄道敷設することを決定した。
 官営鉄道と並行して民間資本による鉄道整備を取り入れたことによって、後の日本鉄道、山陽鉄道、九州鉄道、北海道炭鉱鉄道などの日本の東西を結ぶ屋台骨の構築を迅速に進め、開業から30年余りで日本の鉄道網は、7,000kmを突破する結果となった。

記事

<主な鉄道関係の招へい技術者> 年号:明治
3年3月〜4年9月(病死) エドマンド・モレル(土木師長)
3年3月〜9年1月 ジョン・タイアック(建築副長)
3年4月〜10年9月(病死) ジョン・エングラント(建築副長)
3年8月〜9年9月 クリステー(汽車監察方)
5年7月〜10年2月 アル・ウイ・ボイル(建築首長)
6年9月〜15年2月 エドモンド・グレゴリー・ホルサム(建築師)
6年10月〜14年4月 トーマス・アル・セルビントン(建築師長)
7年4月〜11年8月 ウォルトル・マカルセー・スミス(汽車監察方)
9年9月〜18年12月 フランシス・ヘンレー・トレビシック(気罐方頭取、明示21年に来日するリチャード・フランシス・トレビシックの弟)
11年3月〜18年12月 フレデリッキビー・ライト(汽車監察方)
15年3月〜18年12月 シ・エー・ダブリユ・パウネル(建築長)[注:チャールズ・アッシュトン・ホワテリー・パウエル]
21年〜37年 リチャード・フランシス・トレビシック(汽車監察方、蒸気機関車の発明者の一人であるリチャード・トレビシックの孫)