1854

アメリカ大統領から模型機関車を寄贈される。

米英仏の模型蒸気機関車

記事番号J30

 1854年、ペリーが2度目の来航時にアメリカ大統領からのお土産として、蒸気機関車の模型一式を携え、横浜の海岸にレールを引いて、運転してみせてくれた。
 のちに、この模型は、伊豆韮山の代官である江川太郎左衛門(製鉄用反射炉を国内で初めて作った人)の手によって、江戸城内にて将軍の前でも運転された(参照:石山光秋著 スピード物語 筑摩少年図書館)。

生産技術

 横浜での運転時の様子を幕府の河田恵廸斎は、次のように書いている。
 「火輪車は凸形の鉄の車路に車輪を安定させ、前の車には煙突、火箱、それにいろいろな機械がのせてあり、うしろの車はひとを乗せるための箱の形になっていて、箱の左右には門があり、ひとが出入りできるようになっている。なかには数十のいすがある。下には四つの輪があり、前の車とは鉄のかぎで連結してある。しかし、模型なので二、三人しか乗ることができない。アメリカ人に運転させた。火を発して機械は動きだし、筒から煙を拭きながら輪が周りだした。その早いことは飛ぶようで、数回まわったがたいへん愉快なものだった。」(引用:(石山光秋著 スピード物語 筑摩少年図書館 19ページ)

時代背景

 イギリスの発明家ヘンリー・ベッセマーは、1855年に溶けた銑鉄から鋼を取り出すベッセマー法の特許を取得した。この方法によって、世界で初めて低コストかつ大量生産が可能となった。このため、鋼と錬鉄はほぼ同じ価格になり、産業革命後に用いられた錬鉄に代わって、鋼があらゆる産業に使われるようになった。
 また、1850年代には、ドイツからイギリスへ渡ってきたカール・ウィリアム・シーメンスによって、シーメンスの平炉が開発され、1957年に製鉄に必要な燃料を70〜80%節約できる平炉の特許を申請した。1865年にフランスの技術者ピエール・エミール・マーチンがシーメンスのライセンスを基に、この平炉から始めて鋼を取りだすことに成功し、シーメンス・マーチン法として技術を確立した。産業革命以後、この時代までは、イギリスが最先端技術発信の中心地であり、安価に大量の鋼が手に入ることで、蒸気機関を始めとする機械・構造物の技術が進歩した。

記事

<イギリスから持ち込まれた蒸気機関車>
 1858年(安政5年)には、イギリスが中国の鉄道で使用する予定であった762mm軌間の本物の蒸気機関車が長崎へ持ち込まれ、1か月間にわたってデモ走行も行った。

<フランスから贈られた模型>
 山口県立博物館には、幕末にフランスから贈られた蒸気機関車模型「ナポレオン号 」が展示されている。