1852

日本初上陸の蒸気機関車、ロシアから佐賀藩に模型蒸気機関車

ロシア使節団による模型蒸気機関車

記事番号J20

 嘉永2年(1849年)に日本最初の製鉄所を完成させた。黒船来航の前年にあたる1852年には反射炉を稼動させる。黒船来航の半年前、プチャーチン率いるロシアの使節団が長崎に寄港し、模型蒸気機関車を披露する。
 この公開から得た情報を元に精錬方のトップエンジニアである石黒寛次、中村奇輔、田中久重らが蒸気機関車と蒸気船の製造を試みた(蒸気機関車模型は現在鉄道記念物に制定されている)。

生産技術

 佐賀藩の中村奇輔は、田中久重(後の東芝の創業者、からくり儀右衛門とよばれ、彼のつくった万年時計は、上野科学博物館に保存されている)らと3人で力を合わせて、アルコールを燃料に走行する蒸気機関車1台と貨車2台を製作し、佐賀藩内で走行に成功した。
 この走行を見守った人々のなかに、後に早稲田大学を創立した大熊重信もおり、この時の感動から、後の日本の鉄道建設に力を尽くしたとの話がある(参照:石山光秋著 スピード物語 筑摩少年図書館)。

時代背景

 1842年にアヘン戦争における清朝の敗北による南京条約の締結に驚愕した徳川幕府は、異国船打払令の政策を転換し、遭難した船に限り給与を認める天保の薪水給与令を発令した。
 その後、1844年フランス海軍の遠征隊が琉球王国、1844年オランダ軍艦パレンバン号が長崎、1846年アメリカ東インド艦隊が浦賀、1849年英国海軍のブリッグ・マリナー号が浦賀にと外交、開国を目的に入港が相次ぐ状況であった。
 しかし、1849年に長崎に来航したジェームス・グリン大尉は、帰国後、米国政府に対し、日本を外交交渉によって開国させること、また必要であれば「強さ」を見せるべきとの建議を提出し、1853年にマシュー・ペリー率いる蒸気船のアメリカ艦隊が来航して開国を要求した。
 1854年ペリーが再来航し、日米和親条約を締結したことによって、下田と函館を開港し、1858年タウンゼント・ハリスと徳川幕府が日米修好通商条約を締結し、鎖国が完全に終った。