日本における初の特急形気動車であり、1967年(昭和42年)までに384両が製造され、日本全国で広く特急列車に用いられた。特急電車151系「こだま」の気動車版。食堂車やクーラー(国鉄気動車初)など最新装備としている。
系統としては、1960年に先行量産型的な位置付けで「はつかり」気動車化用として製造された「キハ81系」グループ26両と1961年以降に製造された「キハ82系」グループ358両の総称(Wikipedia)
当時国鉄へ気動車を納めている帝国車輛、東急車輛、新潟鉄工、日本車輌、富士重工5社と電車・客車メーカの川崎車輛、汽車製造、近畿車輛、日立製作所の4社が加わり、文字通りわが国旅客車両メーカの総力が結集された。(鉄道ピクトリアル2008.8)
生産技術
運転台を持つキハ81形は他に例のない独特のボンネット形デザインを採用したが、膨れて寸詰まりな形態は鉄道ファンの間から「犬顔」や「ブルドッグ」などの俗称でも呼ばれた。
銀色の屋根にAU12形分散式冷房装置・遮音・防振のための浮床構造車体・複層ガラスによる固定窓・車端部1か所のデッキなど基本的に151系電車を踏襲している。
駆動装置系は、実績のあるキハ55系をベースとした構造とし定格出力180PS級のDMH17系機関を2基搭載。
既存のDMH17Cまでの垂直シリンダー式をやめ、床下側面から整備できるように水平シリンダー形となったDMH17Hが採用された。
(Wikipedia)
時代背景
第2回アジア鉄道首脳者会議 (ARC = Asian Railways Conference)が、1960年に再び東京で開催。この機に新型気動車「はつかり」をお披露目し、アジア諸国に日本の技術力をアピールして鉄道車両の輸出促進に役立てようという目的のため、開発は急ピッチで進められることになった。
記事
鉄道界と沿線の注目のうちに運転を開始したが、故障が続出した。あまりのトラブル続きのため利用者からは不興を買い、マスコミからは「はつかりがっかり事故ばっかりなどと揶揄された。このような問題が続出したのは、製造メーカーが9社に及んだために性能が安定しないことに加え、就役を急ぎ過ぎたために開発過程で新技術の問題点を洗い出す十分な熟成作業が行われなかったことが原因であった。(Wikipedia)
※注:キハ80系は、気動車のグループを便宜的に総称したもの