日本初のアルミ車両は、1946年に戦後の鋼材不足の中で復興のために傾斜生産方式の一環として生産された。当時、使い道の無くなったジュラルミンを使用して車両を開発・製造するよう運輸省が車両メーカに指示して製造されたもので米国統治の指令に基づく平和利用。接合技術はリベット構造で、骨組みは鋼製でスキンアルミ合金構造といえる。耐腐食性が悪く、また溶接ができないなど難点が多く続かなかった。川崎車輌製(現、川重)。(「金属」Vol.70(2000),No.2 p56)(Wikipedia)
生産技術
<日本初 ジュラルミン製車体 製造>
・ジュラルミンの接合:リベットで組立てた
・構造:骨組は鋼製、スキンがジュラルミンの構造
(スキン・アルミ合金・鋼製構体構造)
この製作技術は、シングルスキン構造の軽量化の極致としての航空機構造であり、後の超電導磁気浮上車両の構体構造に採用された。(「金属」Vol.70(2000),No.2)
記事
<我が国初のアルミ合金電車(ジュラルミン以外)に関する補足情報>
1954年新潟の栃尾電鉄の自社工場でアルミ合金車体のモハ210を製作した、とするとこれが我が国初のアルミ合金電車となる。しかし、製法や構造の詳細が不明であり、またその製法が後の鉄道車両の開発に寄与しているわけでないとみなされるので、これを我が国初とはしていない。
また、鋼索鉄道(ケーブルカー)では、1952年日立が南海電気鉄道にアルミ合金製の全溶接構造車両を納入しているが電車ではない。(Wikipedia)
<車両用軽金属委員会の発足とその結末>
車両の軽量化のための軽合金すなわちアルミ合金の利用は、以前から提唱されていたが、その利用は装置部品の部分的なものに留まっていた。日本鉄道車両工業協会 技術委員会での協議の結果、1951年8月に車両用軽金属委員会(学会・国鉄・私鉄・材料メーカ・車両メーカ 80余名で構成)が誕生、以後3年間の調査研究結果が、「車輌と軽金属」(1955年)に纏められている。
当時の背景として、軽金属業界が戦後航空機生産停止後、1948年生産再開され、平和的利用のひとつとして鉄道車両への応用が軽金属からの要請でもあり、国鉄の斡旋・指導の下に上述の委員会が立ち上げられたことが、車両用軽金属委員会幹事長で鉄道技術研究所長の大塚氏が上記書籍の発刊にあたってで述解されており、いろいろな思惑がらみであったことが偲ばれる。
サンプル車両としての設計対象として最も重量軽減の要求が強い気動車が選ばれ、キハ42000系の軽合金化設計研究が行われた。結果は、7社9様でさらに工作局案の10種が出揃ったが、試作費等諸問題から研究途中で打切りとなっている。(Wikipedia)