車体の骨組みと外板を鋼製とした半鋼製電車。二重屋根。手動扱いの扉。長さ17m、100kW×4
昭和元年度製車両(大正15年3月6日鋼製電車の設計登録、12月13日川崎造船所製73200、日車製73223落成、電装完備12月30日、試運転昭和2年1月12日)
発注は、電動車80両、付随車29両の計109両。後に、電装品の都合から20両は昭和2年度に繰下げ落成。
製作車両メーカ:川崎造船(現、川重)、日車、田中車輌(現、近車)、汽車支店(後に川重に併合)
生産技術
<国鉄初 半鋼製車体 製作>
時代背景
高速化、大容量化する車両は、従来の木造車両では引っ張りの強度や追突事故時の損傷被害の甚大さなどが顕在化する問題となっていた。
記事
<戦前の国鉄の電車の半鋼製化事情>(以下鋼製化は、屋根以外のを鋼製とする半鋼製化)
・1926年(T15) 9月23日 山陽本線で特急脱線転覆事故 木製構体は粉々に破損した。(死者34名)
鋼製化が急がれるきっかけとなった。(「金属」Vol.70(2000),No.2)
・1926年 デハ、サロ、サハ計89両鋼製車。以後、鋼製車を急増した。
・1927年(S2) 国鉄は新製客車の鋼製化とともに木製客車の製作を打ち切る方針とした。 (「金属」Vol.70(2000),No.2)
・(1925年(T14)に、木製車の製造を打ち切り、翌1926年(T15)増備車から鋼製車の製造を開始、という記事もある。(国鉄電車発達史 S34.3電気車研究会刊 p76)
・1934年(S9) 国鉄(鉄道省)大井工場にて木製10両を鋼製化車両に改造した。この改造が好評価
だったため、翌年からも引続き両数を増やして改造した。(我が国の鉄道車両工業(都崎) p263)
・1935年(S10)〜1941年(S16) 鋼製化改造(600両以上)
☆新造車両による鋼製化は進められ、1935年(S10)には58%が鋼製車となったが、未だ従来の木製車が600両以上有った。この残りもさらに6年かけて、木製車を鋼製化改造した。背景の理由は・・・
・運輸量の増大・長編成化(5両化、7両化)・加減速度増加により特に中央のM車の前後
衝撃が軽量のT車を前後に突くため、木製電車の車体は著しく弛んできていた。
・事故時の損傷対策上からも鋼製化が急がれた。(我が国の鉄道車両工業(都崎) p85)
・また、1929年(S4)以降、山手線で増解結が行われ列車運転間隔が相当に接近しかつ高速化により信号不確認などによる衝突事故が相次いだ。
木製車両と鋼製化車両の混成編成は被害を一層大きくした。
(国鉄電車発達史 電気車研究会刊S34.3発行 p122)